「三木清文庫」と「戸坂潤文庫」


 終戦の年、1945年に法政大学ゆかりの二人の哲学者が獄中で亡くなっている。終戦1週間前の8月9日に戸坂潤(1900〜45年)が、終戦後 1カ月以上経って9月26日に三木清(1897〜1945年)が亡くなった。ともに時のファシズム政権に反したがゆえに獄中の人となり、ともに疥癬を患って亡くなった。この二人の文庫が法政大学にあることやその内容について、これまでに一度ならず紹介されてきた。
 三木は1922/23年から1924/25年までヨーロッパに留学している。その最初の1年はハイデルベルクに、翌1年はマールブルクに、そして最後の 1年にはパリに滞在している。筆者が三木文庫を最近利用したのは、この期間の特に1923/24年に三木が哲学雑誌『ロゴス』に掲載された哲学者ガダマー(1900〜2002年)の論文を当時読んだかどうか、についての確証を得たかったからである。
 果たせるかな、目当ての『ロゴス』は「三木文庫」のなかにあった。そして確かめたところ、三木独特のくっきりとした短い縦傍線が所々のページの余白に引かれていた。三木は『ロゴス』のなかのリッケルトの論文も同様に傍線を引いて読んだ形跡がある。これについては不思議でない。三木は留学当初、当時新カント学派の著名な哲学者リッケルトのもとで学ぶことを志したからである。それでは、なぜ三木はまだ無名の若き哲学徒ガダマーの論文を読んだのか。
 この問いに答えるのは、少し事情を知っていれば簡単である。三木はマールブルク大学で哲学者ハイデッガーに師事する。ハイデッガーは教授として赴任したばかりで、世に注目を浴びだしたところであった。ガダマーはハイデッガーのもとで学び始めて間もなく、「ロゴス」論文でハイデッガーの論敵ハルトマンの『認識の形而上学』を、ハイデッガーと同じ立場で批判した。実はこの論文をすでに書いたガダマーがマールブルクで三木の家庭教師となったのだから、この論文を三木が読んでいても別に不思議はない。

 こうした不思議でないことも、実際に三木文庫の『ロゴス』誌を目の当たりにするとなお真実味を増す。これは一例であり、ドイツ滞在中に入手されたものが三木文庫には数多い。三木は第一次世界大戦後の不況下ドイツでのマルク大暴落にも助けられて、多数の貴重な書物を買ったのであった。だから、この時代にドイツで購入できるような哲学書を探すならば、まず三木文庫にないか調べるのが順当である。
 戸坂文庫はかつて三木文庫と並んで富士見の図書館にあったが、現在は多摩図書館にある。空間論から始まった戸坂の哲学研究を反映して、戸坂文庫には大戦前の自然科学系の文献が揃っている。戸坂が唯物論研究会(1932〜38年)を主催して世に活躍したことを思えば、マルクス主義文献も多数あるだろうと期待されるが、実際にはほとんど存在しない。三木文庫についても、三木は留学から帰国後日本でいち早くマルクス主義を世に問うて知られたのに、同じことが言える。危険思想とされたマルクス主義の文献は、三木や戸坂の知らないうちに消失したものと考えられる。
 戦後も図書の散逸が見られたが、現在の戸坂文庫には和書654件、洋書905件(図書館のデータ上の集計)あり、三木文庫には和書4451冊、洋書3715冊(桝田啓三郎記)ある。これらは第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての時代の一面を知るための貴重な文献であり、また二人の希有な哲学者の思想展開を辿るうえでも重要な資料である。(文学部教授 菅沢龍文)
 [法政大学図書館発行「HUL通信」(No.38, 2002年)から転記]

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