「桝田啓三郎文庫」に寄せて


 「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデーを発見することが必要なのだ」。
 これは若きキルケゴールがノートに記した生涯を貫く彼の確信である。キルケゴールの生涯は、冷ややかな抽象概念に逃げることなく、不安、苦悩、そして絶望のなかで、人生の意味を問い、追い求める自分自身との血みどろの格闘であった。  「生きているということには不安があるんだ」という、当時本学のドイツ語教授であった内田百閧フことばによって方向づけられたとされる桝田啓三郎先生の研究生活も、生涯取り組まれたキルケゴールさながら、ご自分自身との熾烈な格闘であられたのではないか。本学図書館地下2階の書庫に配列されている「桝田啓三郎文庫」のゆうに−万冊を超える蔵書(洋書約7,300冊、和書約4,300冊)のあいだに身を置いて、私は桝田先生が研究者として挑まれた壮絶な戦いの跡を見たような思いがした。
 桝田啓三郎先生は、本学の文学部哲学科を1930年に卒業され、1934年に本学の予科教授に、1948年に文学部哲学科教授に就任された。その後、千葉大学、都立大学に移られてからも、兼任教授、非常勤講師として長年にわたって本学で教鞭をとられた。


 上:市図閉架 080/2/4-1〜12/MASUDA
 下:市図閉架 080/1/1-1〜15b/MASUDA
 桝田啓三郎先生は、独学でデンマーク語を学ばれ、キルケゴールの原典から直接翻訳され、研究された草分けである。したがって、本文庫の最大の特徴は、日本でのキルケゴール研究が最初に準拠したキルケゴールのドイツ語訳の著作集(シュレンプ編訳、全12巻、1909-22、写真上)ばかりか、デンマーク語のキルケゴール全集の決定版(ドラクマン、ハイベルク、ランゲ編、ヒンメンストルプによる用語解説を含む全15巻、1920-36、写真下)、および遺稿集(1909-48)が含まれている点である。
 「桝田啓三郎文庫」が個人文庫として異色だと思われるのは、ギリシャ語、ラテン語から始まって、英語、ドイツ語、フランス語はもとより、デンマーク語を含む北欧語に至るまでの言語の多彩さである。これは桝田先生ご自身の卓越した語学力を示すものであるが、ご子息の桝田啓介教授によれば、本学ドイツ語教授であった語学の天才、関口存男の影響ではないかということである。桝田先生の翻訳されたものには、キルケゴール以外に、ウイリアム・ジェームズ、フォイエルバッハ、フイヒテ、ベルグソン、デカルトなどがある。
 また、ギリシャ哲学、ドイツ観念論、現象学など哲学研究に必要な基本文献が網羅されているだけでなく、文学作品が多く収蔵されている点にも、驚かされる。というのも、自戒の念を込めて言えば、比較的最近の研究者は、学生時代はともかく、自分の専門の書籍以外は読まなくなる傾向があるからである。ここに、最近の研究者にはない、先生の人文学的教養の幅と奥行きを認めることができる。ちなみに、キルケゴールによれば、真理とは客体的(外面的)なものではなく、それをわがものとすれば精神が絶えず躍動する生ける教養のことである。そして、桝田先生はキルケゴールを詩人とも呼ばれ、不安、苦悩、そして絶望からの脱出を詩的な想像力に賭けられたふしがある。
 ところで、「桝田啓三郎文庫」は、現在、先生をキルケゴール研究へと導いた恩師、三木清の文庫(「三木清文庫」)に並んで配置されている。しかし、それにしても、獄中死という非業な最期を遂げた三木清の棺をのせた荷車を多摩刑務所から牽いて帰られたとき、桝田先生の胸中をどんな思いが去来したことであろうか。(文学部教授 星野 勉)
 [法政大学図書館発行「HUL通信」(No.37, 2002年)から転記]
 
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